菅田将暉ラー

「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。

これは、何か趣味や仕事などを好きになることで、それらが上達する、という意味合いで使われることが多いと思う。

だが、この言葉は、好きなもの対象が芸能人やアニメキャラなどの人物の場合にも使えるのかもしれない。

 

「新・日本男児と中居」という番組の古い放送を見返していた。

私の好きな前田裕二さんが出演していることもあり、よく見る番組である。

この番組では、とある芸能人を崇拝し、外見や生き方などを模倣する一般人を「〇〇ラー」として紹介する回がある。

例えば、菅田将暉を模倣する人のことを、「菅田将暉ラー」として紹介していた。

その模倣のレベルは、外見、話し方、趣味、様々な面において、菅田将暉を感じさせる徹底ぶりである。

 

〇〇ラーを名乗る人たちは皆番組で、〇〇ラーになることによって、自分の人生が良くなったと言っていた。

 

CMのオファーが来たり、整理整頓・読書をするようになったり、芸能人の影響で新しい趣味ができたり(ギターなど)、付き合う友達が変わったり、といったことだ。

 

ギターの場合、普通は純粋に「ギター好きなのでがんばろう」というモチベーションだが、

菅田将暉ラーのモチベーションは、「菅田将暉がギター好きなので、がんばろう」というような感じだ。

菅田将暉菅田将暉ラーとギターの仲介役となり、菅田将暉ラーをギターの上達に導いているのだと思う。

練習中は、ずっと菅田将暉がギターを弾いているのを頭に思い浮かべながら練習しているのだろう。

 

夢中になれるものを見つけるのは、簡単なことではない。

やる気のない誰かに目標を見つけさせたいときには、その人が好きな芸能人が好きな趣味や習慣について勉強させる、というアプローチもありかもしれない。

きっとその芸能人が、良き仲介役・指導者となってくれることと思う。

高校の時の人間関係の築き方は、スマートだったと思う。

先輩と高校時代の話をしていた。

その先輩は、高校時代のクラスの人間関係が、かなり複雑だったそうだ。

友達の取り合い、仲間外れ、男が原因の友情崩壊等、色んなことがあったらしい。

私が高校の時は、知る限りではそんなにドロドロした感じはなく、皆仲良く平和だったという話をした。(私が知らないだけかも。)

 

高校時代を思い返してみると、皆とても要領の良く、無駄のない人間関係を築いてたなと思う。

当たり障りのない会話をし、あまり深く踏み込まない。深く踏みこまないので、衝突が起こることもめったにない。

今思えば皆、人との関係にエネルギーを使いたくなかったのかもしれない、と思う。

 

私の通ってた高校の生徒が進学する大学は、トップは東大、底辺は私の通ってた普通クラスの私立などである。

ガリ勉で一日中勉強してるのかと思いきや、その一方で、部活にも力を入れていた。

インターハイに出てた部も、確かあった。

私は部活も勉強も実績を残せず、落ちこぼれだったが、そんな高校に3年間いたのを誇らしく思う。

そんな、勉強と部活に追われてる毎日を過ごす中、人間関係で悩んでる場合ではない。

皆面倒なことは起こさず、スマートに日々を過ごしたかったのだと思う。

試験、部活という名の戦場で全力で戦い、教室という名の休憩所で、いつものメンバーと気休めに話をする。

社会という名の戦場で戦うお偉いさんが、癒しを求めて高級クラブで会話を楽しみ、ホステスと表面だけの関係を築くのと少し似ている。

このような感じなので、面倒な人間関係のいざこざがなかったのでは?と推測している。

 

私が今の会社の好きなところは、会社の人たちとの人間関係が、高校時代の人間関係と似ているからだ。

居心地の良い部署にするため、面倒なことは起こさずメンバー皆仲良くし、それぞれの戦場で頑張ろう。というスタンスである。

営業は、お客様先という名の戦場で戦う。オフィスに帰社し、「お疲れ様です」と皆に迎えられ、案件の悩みがあったら相談する。

皆お互いのプライベートなどには干渉しないし、人間関係のごたごたもない。

こういう環境だから、戦場での戦に集中できるのだと思う。

オフィスをも戦場にしてしまわないように、スマートな人間関係を心掛けたい。

ピンクのキャラものが好きだった私が、急に無色・無地を好むようにになった話

デザインの好みは、年齢を重ねるにつれ落ち着いていく人が多い。

昔はピンクの服、ミニーちゃんの持ち物ばかりだった友達は、23ぐらいからモノトーンやベージュの落ち着いたデザインのものを身に着け、好みのキャラクターも、ムーミンのような大人なキャラクターになっていた。

私は、20代後半に差し掛かってもマイメロディとピンクが好きで、なかなか趣味が変わらなかったため、少し焦りを感じていた。

このまま趣味が変わらずにイタイおばちゃんになったらどうしよう。。。と。

ヒョウ柄を好む大阪のおばちゃんを、後ろ指を指して笑っている場合じゃないと思っていた。

 

そんな感じで心配はしていたが、ミニマリストを目指し始めたおかげで、イタイおばちゃんにならなくて済みそうだ。

ミニマリストは、「無駄なものを排除して、より快適な生活を送る」というような考え方である。

この考え方が身についてきたため、最近は所有物一つ一つのデザインに対して、

「ここにこのデザインがあるのって何の意味があるんだろう?このデザインは、私の視界に入る価値があるのか?無駄なのではないか?」

と考えるようになった。そして、大体において無駄だと判断し、無地を選ぶ。

デザインがあると、視界に入る情報量が多くなり、無意識のうちにストレスになるのだと思う。

 

自分でも驚いたことは、PCや携帯待ち受けの選択の過程までもが、ミニマリスト思考になっていたことだ。

ロック画面にパンダの写真を設定する意味って、何なのか?

ロック画面が果たす役割は、時計とアプリの通知である。

それだったら、ロック画面に役目に徹してもらうため、無色無地にするべきなのではないか?

パンダの写真には、癒しの効果があるのかもしれないが、、

パンダの写真があることで時間と通知がクリアに見えなくなること、見るたび情報が多くストレスが蓄積すること、などなど、、

マイナスの要素の方が多いと思い、パンダとはお別れ。真っ白な無色無地の背景にした。

 

ピンク×マイメロ → ベージュ×スヌーピー といった感じで、段階を踏んで趣味が変わっていくのかな、と思ったが、いきなり無色無地を好むようになった。飛び級した気分だ。

ただ服の好み関しては、きっと、ミニマル思考を極めても無色無地を好きになることはない。

服の場合、どちらかというと人の視界に入るものだし、服のデザインには「自己表現」という立派な役割がある。

営業先では少しでも印象に残りたいので、私はこれからも柄物のシャツを着て、他の人と被らないようにしたい。

好きな有名人は、皆私の友達。

私は、自分の好きな有名人のことを、皆自分の友達だと思い込んでいる。

もちろん会ったことないし、向こうは私のことを知らない。近況を聞いてくれる訳でもない。

私が一方的にテレビや本の中でその有名人のことを、知っているだけである。

でも、テレビや本をとおして私を元気にしてくれるし、自分が悩んでいることを解決してくれるときもある。

その有名人の思想に共感し、ツイッターなどで意見することもある。(これは自己満)

これって、友達の要素の7割くらいは満たしてるのでは?と思う。

ただ、有名人の場合は対面で話せるチャンスがほぼないという点などで、やはりリアルな友達の存在には劣る。

Face to Faceのコミュニケーションは大事だと思う。

しかし、コロナ禍で人と直接あって話すことは良くない風潮であり、電話やWEB会議を使用する頻度が高まった。

そんな状況の中、自分にとって、友達と好きな有名人の存在が同じになりつつある。

どちらとも、Face to Faceのコミュニケーションができないという状況になってしまったのだ。

 

コロナ禍の状況下で、オンライン飲み会が流行している。

このオンライン飲み会は、大好きなメンバーだったら安定しておもしろい。

しかし、それ以外のメンバーの場合、会話がおもしろいくないときは退屈すぎて、

「お酒こぼしてPCが壊れちゃったみたいなので、抜けます!」

と言い出したい衝動に駆られてしまう。

なんとなく一緒にいるだけの関係のメンバーとも、外に飲みに行けたときはそこそこ楽しかったが

オンライン飲み会になると、失礼なのは重々承知だが「あれ、こんなにおもしろくないメンバーだったっけ。。。」と思ってしまうことがある。

Face to Faceのコミュニケーションは、自分が思っていた以上にいろんな退屈要素をカバーし、楽しい時間を作りだしてくれていたのだと思う。

 

そんな風に考える中、テレビをつけてお気に入りの有名人の番組を見てみる。

オンライン飲み会と同じように画面越しで、しかも一方的に話を聞かされているという状況にも関わらず、安定したおもしろさを与えてくれる。お酒もすすむ。

改めて、存在の大きさに気づかせてくれる。

 

なんとなく一緒にいるだけの関係の人たちとのオンライン飲み VS お気に入りの有名人の番組を見ながらの晩酌

 

圧倒的に後者の勝利ではないでしょうか?

 

でも、、、

 

大好きなメンバーとのオンライン飲み VS お気に入りの有名人の番組を見ながらの晩酌 

 

これに関しては、この先どのような状況になっても、前者が圧倒的勝利だと思う。

 

同じ「営業」でも、貢献の度合いが大きい仕事に憧れる

途上国支援のビジネス立ち上げを支援する会社があるらしい。バングラデシュの麻を使った雑貨の輸入販売をしていて、途上国の自立を促すことが目的のビジネスだそうだ。

モノやサービスを提供する会社には、営業職あるいはそれに代わる職種があると思われるが、このような会社で営業として働くと、さぞかし良いモチベーションを保って営業活動ができるのだろうなと思う。

売れば売るほど「稼げる」のは、大体の営業において同じだと思うが、この会社では「稼げる」と同時に「貧困層の生活が豊かにする」という社会貢献ができるのだ。

この会社に限らず、様々な会社で「貧困層の生活を豊かにする」ことを目的に汗水たらしている営業マンがいるのだと思う。(世間知らずで新聞も読まないため、他の会社のビジネスには疎い)

 

現職営業をしているが、正直今の自分の担当領域では、「私貢献をしているな」と思うシーンが少ない。

誰かが困っていて、それを助けることができたら、それは貢献と言えるのだと思う。

だが、私の案件の7割については、貢献できたと言い切れる自信がないものだ。なぜならば、この7割の案件については、うちの会社ではなくてもできるサービスだからだ。競合がたくさんいる中で、価格差や、お客さんとの強いリレーションなどの要因で受注できたものである。

残りの3割は、貢献できたと言っても良い案件だと思う。当社製品を導入したお客さんがコスト削減できたり、残業を減らすことができたり。いわゆるお客さんの効率化に貢献できた案件だ。

 

しかし、前述のバングラデシュ雑貨輸入販売会社のような会社を見ていると、現職の社会貢献度の低さを感じてしまう。

潤っている日本企業の仕事を効率化する。

貧困層の生活を豊かにする。

同じ「貢献」でも、後者の仕事の方が貢献度が高いのは一目瞭然。

 

営業という仕事は好きで続けている。しかし、同じ営業という仕事でも、前述のような社会貢献の度合いが高い営業あるなら、そっちをしたい気がする。

 

という独り言でした(*_*)

同じドラマを繰り返し見てしまう心理について

人生でおもしろいと思ったドラマは数本しかないが、気に入ったドラマは何回も見る。

別のドラマは見ないのか?私にとって、新しいドラマを見ることは多くのエネルギーを消耗するため、ハードルが高い。

おもしろいかどうか分からない話を見ることに、何時間も費やすという行為が、無駄だと思ってしまうのだ。

それだったら、おもしろいと分かっているドラマを見た方が、無駄なエネルギーを使わず気楽に楽しめる安定感がある。

 

おもしろいかどうか分からない、知り合いになりたての人と飲みに行くよりも、いつもの仲良しメンバーで飲みに行った方が楽しい。

現実の付き合いでも、このような感じで、あまり喋ったことのない人と会話した後の疲労感は半端じゃない。我ながら、よく営業の仕事を続けているなと思う。

 

このように、ドラマを見るという行為と人と会うという行為は、似ているところがあると思う。

一つのドラマを全話見終えたころには、そのドラマの登場人物と友達になった気分になっている。その登場人物たちと、もう一回会いたいと思ってしまうのだ。そして見れば見るほどその登場人物たちに親しみを感じ、何周も見てしまうのである。

新しいドラマを見るとき、0からそのドラマの主人公と関係を築かなくてはいけない。主人公と仲良くなれそうにないので、途中で見るのをやめたドラマも多い。

 

新しい人間関係を築くのに抵抗があるため、転勤、転職、引っ越しなどもためらってしまう。こんな自分の特徴が、ドラマを見る行為一つにも出てしまっている。

「一回見終わったドラマは見ない」というルールを設けることから、自分を変えていけるかな。

 

 

「量より質」の「質」について、新しく学んだ意味

コーヒー好きな私は、会社行く途中や休憩時、よく自販機でコーヒーを買う。

自販機には大体、350ml程度の大容量のものと、200ml程度の小容量のものがある。

私はつい最近まで、何のためらいもなく、大容量の方を選んでいた。

値段は、小容量のものと大差がない。だったら、大容量のものを買った方が得。

そんな単純な考えで、小容量のものには見向きもしていなかった。

 

最近になって考えが変わり、小容量コーヒーしか買わなくなっている。

大容量コーヒーを選択することで得する額と、それを持ちあるくことによって奪われるカバンのスペース、消耗する体力とを並べてみると…あきらかにマイナス要素の方が多くなるからである。

ここ最近はこのような感じで、いかに自分が快適に生活できるか?ということを重視した買い物ができる能力が身についたような気がする。

ミニマリストを目指して、色んなミニマリストの動画を見たりして勉強をしているけれど、彼らの「少ない物で生活をよくしよう」という考えの影響かもしれない。

 

前までは、「量より質」と聞くと、、、

自販機で買うコーヒーにあてはめると、普通の大容量のコーヒーを買うより、ミル挽き珈琲のような、高級な小容量のコーヒーを買うということだな、ということくらいしか思いつかなかった。

最近学んだのは、そのコーヒーが自分を快適な生活に導いてくれるか?という、(私にとって)新しい意味の「質」である。

これからは、この「質」を大事にして生きていきたい。